ここは読書日記の中でも<時代/歴史小説>と並んで一番力が入るところでもあります。
あまり力が入らないようにボチボチいきたいと思います。
本の紹介とは別に、ムラカミさんに関する過去の書き込み(もちろんこれからの書き込みも)を紹介するベージも作りましたので、こちらもボチボチ更新していきます。
村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか?』文藝春秋 (2016.2.22 tanakomo)
ムラカミ文学やエッセイが大好きなフナツとしては、ムラカミハルキさんの本は鎮静剤というか、癒し本というか、けっこうつらいときに読む本になってる部分があります。
ムラカミさんの新刊は、どれもおもしろいのはわかっているので、とりあえず全部買っておいて、ここぞというとき、タフな出張の帰りとか、ハートブロークンなときとか、大きな仕事を仕上げて自分にご褒美をあげたいときとか、そんなときに読むためにとっておきます。
まあ、ビンテージもののワインとか地酒、知り合いからもらった「日持ちする特上のみやげもの」といったものと同じような扱いですね。(ちなみに、日本の通常家屋はワインの貯蔵にはまったく向いてませんので、良いワインをもらったらすぐ飲むべきなんですけど・・)
こういうときにこそ開けようとか、食べようとかいうものですね。
ま、状況はそれなりに類推していただくとして、久々の村上春樹さんです。
表紙に「紀行文集」とあります。
とても好きなジャンルです(あ、ムラカミさんが書くという限定で)。
以前ここに書いた記憶がありますが、あの名作『遠い太鼓』の続編のような感じです。
自他共に認めるハルキストで、もし『遠い太鼓』を読んでない人がいたら、それはもうぜひ読んでみてくださいね。
その続編という形ではないですが、本の帯にも、
「『ノルウェイの森』を書いたギリシャの島再訪、フィンランド、トスカナ、熊本など」
と、あります。
今回ムラカミさんが訪れたのは以下の場所です。
ボストン
アイスランド
オレゴン州ポートランド
メイン州ポートランド
ミコノス島
スベッツェス島
ニューヨークのジャズクラブ
フィンランド
ルアンプラバン(ラオス)
ボストン2
トスカナ(イタリア)
熊本県(日本)
それぞれに味わい深い紀行文を書かれています。
あ〜、なんかほっとする〜、っていう文章です。
練達というか、洒脱というか。
安心して読めます。
おもしろいし。
そして、上記の場所の半分以上はフナツも訪れたことがあり、かつ、『遠い太鼓』で読んだことのある場所なので、なんか懐かしいです。
例によって、美味しい料理や素敵なレストランについてもいろいろ書いているので、今度ボストンに行くことがあったらここ行ってみよう!とか、そういう記述も随所にあります。もちろんボストン以外にもいっぱい書かれているので、お楽しみに!
ムラカミさん、美味しい料理や素敵なレストランの描写がまた上手なんですね。
この本の題名になっている「ラオスにいった何があるというんですか?」は、ラオスに入国するための中継地点、ヴェトナムはハノイで一泊した際にヴェトナム人から受けた「どうしてまたラオスなんかに行くんですか?」という質問に言外に読み取れる意味なんですね。
そしてムラカミさんは心の中でつぶやきます。
「さて、いったい何がラオスにあるというのか?良い質問だ。たぶん。でもそんなことを訊かれても、僕には答えようがない。だって、その何かを探すために、これからラオスまで行こうとしているわけなのだから。それがそもそも、旅行というものではないか」(p.151)
旅行ってそんな感じですよね。
そこに行って手に入れられるもの見るべきものが、日本にいてすでにわかってるなら、そんなに行く必要はないんじゃないか、もしくはそんなにおもしろい旅行にはならないんじゃないかなぁ、そんな気がします。
あ〜、どこか行きたいなぁ・・・
(2013.12.6 tanakomo)
あー、なんか久しぶりの本の紹介だなぁ・・。
もともとこのtanakomoは読書日記だったのになぁ・・。
やっぱり忙しいのは良くないなぁ・・・ぶつぶつ・・・。
気を取り直して・・、久しぶりに、ちょっとだけ長い書き込みです。
以前ここで、ムラカミさんのエッセイ「村上ラヂオ」が、雑誌「アンアン」連載で(しかし、まだアンアンって雑誌残ってるんですね、なんかすごいですね)再開された、ということを喜びとともに書きました。
覚えていただいてますでしょうか?
まあ、別にそんな古いアップは覚えてなくてもいいんですけど、その連載をまとめた本が(まず単行本になり、そしてこの)文庫本になりました。
相変わらずの「村上ラヂオ」です。
じっくり楽しまなきゃと思いつつ、もうひとつ(連載一回分)だけ、あともうひとつだけ、ってあっという間に読んでしまいました。
でもちゃんと4日かけました。(つまり4回に分けて読みました)もっと読みたくなる気持ちをぐっとこらえて本を閉じ、ちょっとした切れ切れの時間ではなく、一日の仕事を終えてあとは何もない、というところ(時間と場所)で、おもむろに開いて、ひとつひとつを味わうように読みました。
おもしろかったです。
万人受けはしないかもしれませんが、フナツは昔からムラカミさんのエッセイが大好きで(小説よりも好きで)読んでいるので、まだ一度も読んでいないムラカミさんのエッセイが(まあ、本棚に何冊もムラカミさんのエッセイ本はありますが、どれも4、5回は読んでいるので)こんなにたくさん読めるなんて、とてもとても幸せだなぁと思うわけです。
最近ほとんどムラカミさんはエッセイを書かないんですよね(この「村上ラヂオ」は例外)。それも超テキトーなヤツは・・・。
近頃けっこう政治的な発言が多いし、きっと、先日出版されてあっというまにベストセラーになった長編小説にエネルギーを注いでおられたんでしょう。
大橋歩さんのイラストも(最初からずっと同じ)相変わらずステキです。
この文庫本には、全部で52のエッセイが収められています。
フナツが特にいいなぁと思ったのは、
「究極のジョギングコース」
「キャラメル・マキアートのトール」
「アボカドはむずかしい」(この文庫本の題名)
「並外れた頭脳」
ってところです。
ぜひ、みなさんの感想をお聞かせください。
村上春樹が好きっていう人なら当たり前ですが、別に嫌いじゃないよ、ってくらいの人まで楽しめると思うし、「なんか世間でよく村上春樹っていう人がニュースになってるし、まあ一度くらい読んでみよっかな」なんて人にもお勧めです。
でも「いったいこれらエッセイのどこがいいのだ、400字以内で詳しく説明せよ」と言われてもフナツにはうまく答えられません。
エッセイを読んで、つかの間「ほのぼの」してくださいって感じですね・・・。
あ、それから、「センセー、これ2ですけど、もう単行本なら3も出てますよ」などという無粋なことは言わないでくださいね。
フナツは、この手の本は文庫本で読むのが好きなのです。肩肘張らないというか、文庫になるまで楽しみはとっておく、という感じが好きなのです。
単にケチなのかもしれません。
でも、まだ世の中に自分が読んでいない、とっても好きな作家の作品が存在するってすごく楽しいことじゃないかと思うのです。
たとえば、もう藤沢周平さんの新作は絶対読めないわけだし(あー、わからない方のために書いておくと、藤沢周平さんというのはフナツが大好きな時代物の作家で、お亡くなりになりました)世に出ている作品は読み尽くしてしまった、なんてことがわかるととても寂しいものです。
あー、ひさしぶりに本の紹介を書くといろいろと長くなる・・。
とりあえずこのあたりで、
『1Q84 BOOK 3(10月ー12月)』(2012.5.8 tanakomo)
読んでいない本を、正確には「最後まで」読んでいない本をこのブログで紹介するのは初めてです。ラストシーンのことも、どんなふうに話が終わるのかもわからないまま本の紹介をするのは、もちろん、気が咎めます。
つまり、結論や話の展開や論旨など、著者が言いたかったことを読まないまま(理解しないまま)本の紹介をするのは著者に失礼だからです。最後まで読まなくてもわかる本、つまらなくて途中で放り出す本ももちろんありますが、そんな本をここで紹介するのは純粋に「時間のムダ」だと思っています。
本は最後まで読んで、初めて著者の言いたいことがわかるとフナツは思っています。
言い換えれば、途中は飛ばしてもいいのです。こんなフナツの本の読み方は乱暴だと思いますか?(もちろん、おもしろい本の途中を読み飛ばしてはいません、ちゃんと味わっています。いわゆるたとえ話ね)
まず、著者は最初に提示します。「オレ(アタシ)はこんなこと書くよ、こんなこと書きたいんだからね、こうやって始めるよ」って。それで、読者は「おう、そうきたか、だったらつきあってやろうじゃないか」と読み始めることになります。そして「こーだから、あーだから、それでもって、こーなるんだよ」と著者は自分の主張したいことや、書きたかったことの立証や、エピソードなどを、いろんな道具立てでもって読者を引っ張って、最後に「これまで書いてきたことは、結局こういうわけなんだよ、わかった?どう?おもしろかった?」となるわけです。
でもって、読者は「うーん、そうきたか」とか「うう(涙、涙)」だったり、「しみじみ」しちゃったりする。「おーし、明日から頑張ろう」かもしれないし「世の中には私の知らないことが多すぎる」と感動半分嘆き半分かもしれない。
フナツの経験則として、最初はつまらなくても、3分の2までにおもしろくなれば、最後に「はずれ」はあまりない。(そういう本もたまにあるけど・・)
つまり、最初はなんとなく、途中はけっこういいかげん、でも引き込まれておもしろくなって、そして最後はきっちりおつきあい、こんなふうに著者と読者のおつきあいが生まれると、フナツは思っているわけです。
あー、また前置きが長いですが、
だから本を最後まで読まずに「この本いいですよー」とここで紹介するのはちょっと主義に反すると、しかし、この本は別ですよ、と・・。
「だってぇ、もったいないんだもん!!全部読んじゃうの!」(ええと、いきなりオネェ言葉ですいません、まさにそんな気分で・・)
フナツはすごくおもしろい本のラスト(を読む)のために、場所と時間を選ぶほうです。しみじみ余韻に浸りたいのに「あ、電車降りなきゃ」とか「これから打ち合わせだ、気合い入れよう(気合いが入らない)」などなど、いろんな事情であと数ページ残して本を閉じるなんで嫌ですよね。
好きな食べ物をちょっとだけ食べされられて、残りはおあずけね、ってかなり寂しいです。
なわけで、BOOK 3は、ほんの少しずつ読んでます。
終わってほしくない・・。
あー、何をうだうだ書いてるんだと我ながら思いますが、まあ、そのくらいおもしろい本だということで。
「最後まで読み通すのがもったいない、快い時間がもう終わってしまう、それはいやだ、もっと楽しませてほしい」こんなふうに感じさせてくれる本に、これから死ぬまでに何冊出会えるかなとしみじみ思います。
『1Q84 BOOK 2(7月ー9月)』(2012.5.8 tanakomo)
えーと、これを読もうとしている人は、BOOK
1の書き込みから読んだ方がいいと思います。それが面倒な人は、この書き込みはスルーすることをお勧めします。
前後の状況を説明せずに一部分だけ引用するのは気が引けますが・・、「説明してもわからない人にはわからない」(この部分もわかる人にはわかるし、わからない人にはわからない・・・)わけだし、ある文章を読んで何を思うか、どう感じるかも人それぞれなので、勝手に好きなところを引用しちゃいます。
***
天吾は続けた。「僕は誰かを嫌ったり、憎んだり、恨んだりして生きていくことに疲れたんです。誰をも愛せないで生きていくことにも疲れました。僕には一人の友だちもいない。ただの一人もです。そしてなによりも、自分自身を愛することすらできない。なぜ自分自身を愛することができないのか?それは他者を愛することができないからです。人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るのです。僕の言っていることがわかりますか?誰かを愛することのできないものに、自分を正しく愛することなんかできません。いや、それがあなたのせいだと言っているわけじゃない。考えてみれば、あなただってそういう被害者の一人なのかもしれない。あなただっておそらく、自分自身の愛し方をよく知らないはずだ。違いますか?」
***
さてこのBOOK 2の最後で読者はホントやきもきさせられるんですよね。
はたして天吾と青豆はほんとうに巡り会えるのか?
ああ、3分の2が終わってしまった・・。
『1Q84 BOOK 1(4月ー6月)』(2012.5.8 tanakomo)
えーと、ムラカミさんの本です。
例によって(ムラカミ関係は)書き込みが長いです。特に今回フナツの独白が多いので、読むのが面倒な人、ただ単に情報が欲しい人は、この書き込みはスルーしてください。
さて、
誰にでも大切なものがあると思います。
フナツにとっては、村上春樹の新しい小説がそれにあたります。
もちろん大切なものはお金では買えないもののほうが多いです。
フナツがここで書きたいのは、むろんそういうものではなく、所定の場所に行き、妥当な代替物(とりあえずはお金)と交換であれば、そしてそれなりの努力(調べるとか、その場所まで行くとか)があれば手に入る、という種類の「大切なもの」のことです。
人によっては、それがブルゴーニュのワインであったり、ある種のガンプラであったり、AKBの直筆サイン&握手券(すいません、このあたり想像で書いているのでよくわかりません)であったりすると思います(あくまでも想像です)。
ワクワクしながら手に入れて、もったいなくて封を切れなくて、でもいったん開けちゃうと一気に最後まで味わってしまう。そんな感じの大切なものです。
この『1Q84』は、もうすでに文庫本まで出ています。書店に平積みになっていますね。
このブログでも以前書きましたが、日本の文芸作品というのは、まず作家が文芸雑誌に連載、もしくは書き下ろしという形で原稿を書き、そこで作家は原稿料をもらい、出版社は雑誌を売って儲ける。そしてその後、それを本にして(これが単行本といわれるもの、いわゆるハードカバー)、出版社はこれを売って儲けて、作家は印税をもらう。そしてまたその後、単行本の売れ行きその他を勘案して、出版社はその作品を今度は文庫本という廉価版にして(本の体裁を小さく、装飾を最小限に、単価を下げて)売ってまた儲ける。当然作家はその文庫本の印税をもらう。
まあ、こんな感じで、一粒で3度おいしい、という仕組みになっています。
なので、フナツがムラカミさんの新しい本を買って、すぐ読むのはもったいないから、長期の休暇か、リラックスできる長い距離の移動を伴う出張のときに持っていこう、などといろいろ考えて「読み惜しみ」をしている間に、もう文庫本が出てしまい「え、もう?」って感じで、数年経ってしまっているという状況があったわけです。
これは世に言う「積ん読」とはまったく(フナツの中では)違います。フナツにも「買ってまだ読んでいない本」「目的があって買ったんだけど、まだ時期的に早いからもう少し後で読む本」「その本を目にしたときは読まなきゃと思って買ったのだが、ちょっと状況が変わったので今はとりあえず置いてある本」などというのはたくさんあります。
そうではなくて、フナツにとってのムラカミさんの新しい本は「至福の数時間が保証されているから、頑張ったご褒美として読む」本であり、反対に「何かつらいことがあったらその代償として、その治癒のために癒しとして読む」本でもあるわけです。何かお祝いがあったときに、じゃ、とっておきのワインを抜くか、って感じです。
あー、ちなみにごく普通の日本家屋やマンションは、ワインの貯蔵にはまったく向いていないので、いいワインは買ったらすぐ飲むことをお勧めします。「いい(特にもらいものの)ワインは特別な日に飲もう」というのはただ単にワインの劣化をうながすだけです。
ま、それはさておき、
とりあえず、その大切な本を、今「読んで」います。
3巻ある本を1巻ずつ紹介するなんていうのも初めてですが、まあいいでしょう。
フナツにとってのムラカミ作品は、とてもインスピレーションに満ちており、フナツはムラカミさんの書くものにとてもインスパイアされています。フナツの中の眠っているものを、自分でも存在を知らなかったいろいろなものを発火させてくれて、その存在をあらわにしてくれるような作用のあるものといってもいいです。
ちょっとだけ、引用させてください。
天吾と青豆の思い出のシーン、その後のいろんな展開に関連してくる場面です。ここだけ引用してもしょうがないんだけど、心から離れないので・・。
******
そしてあるときその少女は天吾の手を握った。よく晴れた十二月初めの午後だった。窓の外には高い空と、白いまっすぐな雲が見えた。放課後の掃除が終わったあとの教室で、天吾と彼女はたまたま二人きりになっていた。ほかには誰もいなかった。彼女は何かを決断したように足早に教室を横切り、天吾のところにやってきて、隣に立った。そして躊躇することなく天吾の手を握った。そしてじっと彼の顔を見上げた(天吾の方が十センチばかり身長が高かった)。天吾も驚いて彼女の顔を見た。二人の目が合った。天吾は相手の瞳の中に、これまで見たこともないような透明な深みを見ることができた。その少女は長い間無言のまま彼の手を握りしめていた。とても強く、一瞬も力を緩めることなく。それから彼女はさっと手を放し、スカートの裾を翻し、小走りに教室から出ていった。
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作品を通じての、とても象徴的なシーンなのです。
えーと、ネタばらしはよくないんですけど、『1Q84』はとてもよくできたラブストーリィです。
あっという間にBOOK 1を読み終わってしまいました。
あと2冊しかない・・。
ちなみに、以下のサイトを見ても作品の内容は一切書いてありません。
『神の子どもたちはみな踊る』(2012.4.15 tanakomo)
「かえる」ってけっこう好きだな、と思っている人。
村上春樹も実はカエルのことがけっこう好きみたいで、この短編集に「かえるくん、東京を救う」という作品が収められています。フナツの大好きな小品でもあります。
『村上ラヂオ』(2012.3.28 tanakomo)
「村上ラヂオ」復活してたんだ!!
知らなかった・・。
「は?何それ?」という人もいるかもしれないので説明しておくと、昔、雑誌「アンアン」の最後のページに(おお、今見たらイラストも昔と変わらず大橋歩さんじゃないかぁ)なかなか素敵なイラストとともに、村上春樹さんのエッセイが連載されていたのです。
村上さんがご自分でもどこかに書いてましたが、かなりいい加減な、女性誌とは思えない(おしゃれとかメイクとか女性が興味あることとは関係ないですって感じの)肩の力の抜けたエッセイで、フナツはとても好きでした。
もちろん、フナツがアンアンを愛読していたというわけじゃなくて、新潮文庫から出ているアンアンの連載をまとめた「村上ラヂオ」って本を読んだんですけどね(下にアップしたのはマガジンハウスのですが、文庫もありますので)。
で、今日ウチの近くのマクドナルドで(フナツのウチのほうはあまり都会じゃないので、夜開いているお店が限られます、なので国道沿いのマックには気分を変えて仕事するためによく行くのです)何の気なしにそこに置いてあったアンアンを手に取ったってわけです。
普通だったらまずアンアンなんて見ないんですけどね。なぜか手に取った・・。で、「村上ラヂオ」が復活してた(今度は巻頭です、出世したんですね)、ということに気付いたと・・。
相変わらず前置きが長いですね。
その今週号(だと思う・・2012.3.21)に村上さんが取り上げているのが、ヨーロッパで見かけた(たぶん世界でも)、作っている人も、着ている人もクールなつもりの、Tシャツにプリントされたわけのわからない日本語のことです。
super dry のつもりの「極度に乾燥しなさい」とか、Slippery when wet のつもりの「濡れた床は滑る」なんか思わず笑っちゃいますよね。
ちなみに、日本語では「極度に」っていう副詞をあまり使わないし「乾燥+する」は自動詞だから、ほんとうは「乾燥させる→乾燥させなさい」にならないとおかしいし・・。
で、村上さんが、何が言いたかったかというと、「言葉は変化する」ということです。最初は「なんか変な日本語」だとしても、慣れてくるとちゃんとポジションを獲得していくのだということですね。
ちょっとだけ引用します。
****
よく「美しい日本語」とか「正しい日本語」とか言われるけど、美しいもの、正しいものは人それぞれの心の中にあるのであって、言葉はその感覚を反映させるツールにすぎないんじゃないか。もちろん言葉は大事にしなくちゃいけないんだけど、言葉の本当の価値は、言葉そのものよりも、言葉とそれを用いる人の関係性の中にあるのではあるまいか。
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さすが村上さんいいこと言うよね。
あのー、いちおう書いておきますが、フナツは“元”日本語教師であり、ついこないだまで「日本語教師」養成講座の講師でした。多少は日本語の素養もあります。言語学も教えております。そういうものも踏まえて、上に引用した村上さんの言葉にとても共感しました。
まあ、とりあえずそんな理屈は抜きにして、連載復活ということは、また一年後くらいに新しい「村上ラヂオ」の本が読めるんだなと、将来の楽しみがまた増えました。
もちろんこういったTシャツのエピソードは、日本語だけじゃありませんね。みなさんもご存知の通り・・。
日本人が作り(書き??)、着ているTシャツにプリントされている英語は、イングリッシュネイティブが見たらかなり怪しいものが多いです。
フナツはよく大学の英語の授業で、学生が着ているTシャツやパーカなどにプリントされている英語を本人の前で訳してます。
「君はニューヨークを愛してるんだ」
「はぁ?」
「いや、君のTシャツにそう書いてある」
「はぁ・・」
ってな感じです。ははは、嫌味なセンセイ?
ちなみに、よく日本で車に貼られている“Baby in car”ってすごくおかしい!!「文」でもないし、意味のある「句」でもない。
あえて訳せば「車の中の赤ちゃんというべきもの一般」って感じですかね。
たぶん“A baby is in car.” みたいな文を誰かが勝手に省略したんだろうね。冠詞も動詞も要らねえや、ってね(英語ネイティブから見たらとても不気味だけど日本人には関係ないし)。
もちろん“The
baby is in car.”だともっと不気味だけど・・。
「おい!あの車『その赤ちゃんが車の中にいる』ってステッカーが貼ってあるぞ!」「え?どの?」なんてね。ははは、すいません、身内ウケですね。
『村上春樹雑文集』(2012.2.2 tanakomo)
この本がどういう本であるかは、「前書き」の冒頭、次の文章に的確に書いてあります。
<作家としてデビューしてから三十年余り、あれこれの目的、あちこちの場所のために書いてきて、これまで単行本としては発表されなかった文章がここに集められています。エッセイから、いろんな人の本の序文・解説から、質問に対する回答から、各種あいさつから、短いフィクションまで、実に「雑多」としか言いようのない構成になっています。未発表のものもけっこうあります。もう少し普通のタイトルをつけてもよかったのですが、編集者との打ち合わせなんかでずっと「雑文集」と呼んでいたので、「もうそのままでいいじゃないですか」ということで、『村上春樹 雑文集』というタイトルになりました。雑多なものなのだから、あくまでも雑多なままでよかろうと>(12ページ)
久しぶりに、ムラカミさんの文章をいろんな形で堪能しました。
とてもおいしいんだけど、なかなか行けるチャンスのないレストランで、久しぶりにいろんな料理を注文して、ちょっと口にあわないものもあったけど、全体的にはとてもおいしくいただいたって感じです。
たとえば、ムラカミさんがいくつかの文学賞をもらったときの「受賞あいさつ」が6篇収められていますが、普通そういった「あいさつ」なんて、その受賞の日から遠くない時期に、雑誌またはその賞の広報等をちゃんとウォッチしていないとなかなか読めるものではないと思うので、改めてこの本でそれぞれの「あいさつ」に書かれているムラカミさんのメッセージをきちんと読めてよかったなと思います。
また、本の中身は特にきちんとした章立てにはなっていないんですが、目次では5番目にあたる「翻訳すること、翻訳されること」がフナツには特に(仕事とも関連していて)興味深かったです。そしてその中の「カズオ・イシグロのような同時代作家を持つこと」で、ムラカミさんがカズオ・イシグロさんを非常に高く評価しているんだということを知ってうれしく思いました。
先日このブログで彼の『私を離さないで』を紹介しましたが、他にもたくさん面白い本はあるので、彼の他の本をまた近日中にアップします。
最後の章の「小説を書くということ」に出てくるいくつかのエピソードやムラカミさんの考えは、ファンにはたまらないと思います。なんかしみじみって感じで・・。昔、ムラカミさんがエッセイで書いていたしょうもないダジャレで言うなら、読みながら「うんうん」「うん、そうだね」といつもうなずいている「肯定(皇帝)ペンギン」みたいになっています。
さらに、この本の最初(もちろん、前書きの後ね)にある一文、ムラカミさんもたぶん意識的にこの文章を最初に持ってきたと思うのですが、「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」という文章は、年期の入ったムラカミ読者にとって、特に長い間ムラカミさんの未読の文章に出会わなくて禁断症状を起こしていた読者(ムラカミジャンキーとでもいうべき、ムラカミ作品を何度も読み返し、絶えず新刊/新作を待ちわびている読者)にとって、「これぞムラカミさんの文章」だと喜びに打ち震える(ちょっとオーバーかな)一文ではないかと思います。
逆に「ムラカミさんの書いたのって『ノルウェイの森』しか知らないんだけど・・」という読者には「なんか小難しいこと書いてんなぁ」って違和感を持つ文章かもしれません。
もちろん、「正しいアイロンのかけ方」とか「にしんの話」などの、いつもの「ムラカミほのぼのエッセイ」もあります。
あー、とまらなくなりそうなのでこのへんでやめます。
ムラカミさんの魅力がいっぱいつまった本です、ということで。