宗教関連

『はじまりのブッダ』(2015.1.1 tanakomo)

 

さて、新年あけましての本の紹介はブッダの本です。(少々長いです)

 

まずは本の帯から、

 

「初期経典が伝えるブッダの姿を通して仏教誕生の瞬間とブッダの真の教えに迫る」

 

けっこう好意的な書評を読んだので買いましたが、実におもしろいです。

 

まず著者の冒頭の問いかけは(以前キリスト教のことについてのアップでもここで書きましたが)キリストが聖書を書いたのか?アッラーはコーランを書いたのか?ということです。当然、現在私たちが目にして読むことができる「経典」「聖典」というのは、キリスト教であればキリストが語ったとされる言葉をお弟子さんがまとめたものです。

 

そして、語った言葉に忠実に書かれているかといえば、それが怪しい。弟子たち自身およびその宗教の権威を高め、創始者を聖者として祭り上げるために脚色もしただろうし、その他弟子たちの都合の良いように書き直されたかもしれません。

 

著者の平野さんは、はじめに、で「マルクスはマルクス主義者だったか」という有名な言葉を引用して、この本がどのように仏教の全貌に迫ろうとしているかのアプローチを解説します。

 

以下もちょっと引用です(本の帯にもあります)。

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 明治維新後、日本の仏教界は、一つの衝撃的な出来事にみまわれた。

 六世紀に仏教が日本に輸入されて以来、日本の僧侶たちが「ブッダの肉声そのもの」と信じてきた経典の大半が、じつはブッダの死後数百年をへてインドでブッダの名前をかたってうみだされた「創作経典」であることが明らかになったのだ。

 これを「大乗非仏説」騒動という。

 この大きな難題をどうのりこえるかが、これ以後の日本の仏教界の一大テーマとなった。

***

 

明治維新後、ヨーロッパのインド学者たちから近代的な文献的アプローチによる仏教についての知見がもたらされた結果、こんなことが起こったんですね。

 

日本の僧侶たちは、「ブッダは、自分たちと同じ仏教を説いていたのか?」という恐ろしい問いかけに直面したわけです。

 

そして著者は、初期経典は現在一般の読者でも読めるようになっているが、ブッダがいかにその当時、古代インドの宗教社会のなかで危険な異端分子であったかということはあまり知られていないとして論をすすめていきます。

 

ちょっと目次から内容を見てみましょう。

 

第一章:ブッダは輪廻を信じたか ←信じてない。ブッダの出発点は、輪廻は幻想だということ。

第二章:ブッダは何者だったか ←苦行に失敗した乞食修行者の大いなる敗者復活への道。

第三章:「異端」ブッダのライバルたち ←その頃ブッダと同じような異端思想家たちがいた。

第四章:ブッダは霊魂を信じたか ←懐疑主義者ブッダ、死後の世界は死んでみなきゃわからない。議論しちゃいけないと言っていた。

第五章:「諸行無常」とはなにか ←古代インドの墓場の屍臭のなかでうまれた思想。

 

いかがでしょう?このあたりスリリングでおもしろそうじゃないですか?

 

そして、第八章:異端ブッダの死 ←ブッダの死を聞いて「うるさい男がやっと死んでくれた」と言い放った一人の弟子がいた。

 

長くなるのであまり内容にはふれませんが、実証主義者としてのブッダは有名ですね。

祭祀によってみずからの権威付けをして、それで飯を食っていたバラモンの人々にとって、ブッダの教えは自分たちの権威と生業の全否定だったに違いありません。そりゃ嫌われるよなぁって感じです。

 

他にも、ブッダの生涯を見れば、彼が複雑な(相反するような)人間性を持ち、人生の一時期において考えを変え、そして現世における世俗的な立場からすると、とても無責任な人生を送った人かというのもわかります。

 

ヨーロッパにおける仏教研究、たとえばニーチェは仏教をどう考えていたかなどの記述もおもしろいです。

 

そして、この本のおもしろさは、上記のように異端者ブッダの実像を描き出しながらも、それゆえにブッダの魅力に迫るものだということです。ブッダはやっぱりすごい。当然仏教のことももっと知りたい、という気持ちにさせてくれることです。

 

最後に、とてもいいなと思ったのが、「おわりに」に、並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』についての言及があったことと、中村元先生を評して「現代日本の仏教学におけるピラミッドの土台ともいうべき仕事を残した人物」と書いてあることです。こういう著作を書くなら当然かとも思うのですが、いくら異端者ブッダを描いたからといってこれまでの仏教学を否定しているわけではないのです。

 

著者の平野さんは、こんなふうに中村先生のことを書いています。

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以前、仏教学の学生の間に「困ったときの中村参り」という言葉があったそうだが、いまのわたしも『中村元選集(決定版)』(春秋社)をひらく機会があるたびにあらためてその巨きさを実感することになったことを告白しておく。(P.216217

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もちろんフナツも仏教について言及せざるを得ないときに、迷ったら中村先生の著作をひもときます。

 

仏教についてもう一度勉強しなおしたい人に勧めます。




すいません、昨日のブログでイスラムを知りたい人はHPを見てくださいって書きましたが、この読書日記ではなく、ビジネスのページ内の参考文献②にアップしてありました。

 

おまけにあまり内容が書いてなくてすいません。

とりあえず、イスラム教関係で初めて何か読む人は以下の本がお勧めです。

(ちなみに、日本仏教の移り変わりに関しては、もっと下の方の『日本仏教史』のところを読んでみてください)

 

『イスラーム癒しの知恵』(2011.10.3 tanakomo

 

9.11以来、私たちのアラブへの視線は、何かバイアスがかかっているような気がします。日本人は、世界で何億もの人が信じているイスラム教のことをもっと知るべきだと思います。自爆テロやアメリカとの戦争のニュースからは、彼らとても好戦的だったり、独善的な価値観を持っているように見えますが、それこそが一種のプロパガンダではないかと思います。
なんて、真面目に書き始めましたが、この本読んで「おっ、イスラム教ってなかなかいいじゃん」と真剣に思いました。ビジネス研修でイスラム関係のお話をする材料として何冊か読みましたが、一番読みやすく、またわかりやすかった本です。
ビジネスでもイスラムに関する知識がこれからは必要だという理由は、中近東とのビジネスもしかりですが、シンガポール、マレーシア、そして最近とても伸びている国インドネシアがイスラムの国だからです。
この本で一番最初に指摘しているのが、日本の自殺率の多さとイスラム諸国のそれの少なさです。これ一つとっても、欧米の人々が言うほどイスラムの人々は弾圧されたり抑圧的な暮らしをしているわけじゃないんじゃないかと推量できます。
異文化理解の講座をとっている諸君、11月の授業で使うのでなるだけ先に読んどくように。

 

 

 

 

『ブッダをめぐる人々1』(2014.8.8 tanakomo)

 

こちらもマンガです。

 

三大宗教以外にも、世界に広まっている宗教として仏教があります。
もちろん仏教に旧約聖書は関係ないです。

キリスト教やユダヤ教、イスラム教という一神教と比べて、仏教のなんと優しいこと・・。(もちろん、厳しいから悪い、優しいから良い、ということではありません・・・)

あ、ちなみに以前もここで書きましたが、キリスト教とユダヤ教の間にそんなに大きな差はありません。

キリスト教は、外から見た場合、キリストを中心にすえたユダヤ教といってもいいです(ああ、あまりにも単純化してクリスチャンの方々に怒られそうですが、フナツはクリスチャンじゃないので、あくまでも外から見たら、です。あと、手早くイスラム教を知りたい人はHPに参考文献アップしておきましたので・・)

はいはい、ブッダの話です。

この本は、ブッダの教えを、ブッダの回りにいた人々のエピソードを描くことによって、わかりやすく解説してくれています。

作者の里中さんは、この本に収められている「キサー・ゴータミー」のエピソードに感動してこれを書いたとおっしゃってますが、フナツはマガダ国王のビンビサーラの話が悲しかったなぁ・・。ホント人間は悲しいです。

そういった人生の悲哀に際して、ブッダが救いの手を差し伸べ、悩める者に心の平安を与えるんですね〜。

上記の三つの宗教は「神」がいます。仏教には「神」はいない、ブッダは神じゃありません。

これってすごく大きな違いだと思うんですよね・・・。

現在の日本に存在する仏教とはちょっと違う(どう違うのか、どうして違ってきたのかを書くと長くなるので、知りたい人はフナツのHPを読んでね)、原始仏教というか、ブッダの教えを知りたい人にはとてもおもしろく読めると思います。

 

 

 

 

『マンガ旧約聖書1 創世記』(2014.8.8 tanakomo)

 

本来「コミック」のところにアップすべきかもしれませんが、内容重視でこちらへ。

 

マンガってすごいなと思います。
なんというかサクッとイメーがつかめて、なんとなくわかっちゃう。(わかったつもりだけかもしれませんが・・・)

ヴィジュアルイメージってホントすごいです。
でも、現地取材を重ね、って本の帯にも書いてあるから、作者の里中さんも実際に執筆中は苦労されたのだろうと思いますが・・・。

The Old Testament『旧約聖書』というのは、ユダヤ教、キリスト教の聖典であり、そしてイスラム教の啓典の一部となった、いわば世界の三大宗教のベースとなるものです。そうやって考えるとすごいですよね。

三大宗教のことを考えるときに書かせない知識としての旧約聖書を、このような形(マンガ)で押さえておくのもいいんじゃないかなと思い、アップする次第です。

なんて言ってますが、単純にすらすら読めておもしろいです。
たぶんみなさんもちょっとだけ知ってるエピソード(「エデンの園」とか「ノアの方舟」その他いろいろ)もあって、ふ〜ん、こんな話だったのか、なんて感想を持たれると思います。

本格的に、は大変だけど、ちょっとお勉強したい方へ。

以下はフナツの感想なので、違和感があってもスルーしてくださいね。

小学生のときに世界名作文学全集で読んで「へぇ〜」と思い、「なんかすごいなぁ、日本の古典とは違うなぁ・・・」なんて生意気にも思ってました。

長じては、博論書くときにじっくり読み込んで、で、すべてのエピソードに意味があるのか、それとも神話として後世の人々への啓発のためのエピソードと読めばいいのか、結局わからなくなりました。

新渡戸稲造は、日本には日本古来の「旧約」があり、だからこそ日本人も神の教えに近づけるのだと書きました(あ、このあたり書き出すと長くなるので、興味のある人は個人的にフナツに聞いてくださいね)。

「アブラハム」のエピソードや、「イサク(英語読み、アイザックね)の犠牲」などの、神は人間を試す、っていうのは、日本の神話と比べてすごく厳しいイメージだし、「ヤコブとラケル」の女性の立場なんて見ると現在のフェミニズムの方々は怒っちゃうんじゃないかと思うんですが・・・。

まあ、宗教的な物語に関するコメントはこのくらいにしておきましょう。

難しいこと考えずに、単純に物語を楽しんでください。

 

 

 

 

『空海・高野山の教科書』(2013.4.17 tanakomo

 

<高野山へ行ってきました>

4月15日月曜日、この日の午後から夕方にかけて、吉方位が「南西」で、それも今年最強の吉方位取り、ということで、高野山へ行ってきました。

空海の開いた聖地、真言宗の総本山、加えて最近はやりの「パワースポット」ということで、これまで漠然とした憧れはあったのですが、なかなか行く機会がなかったところに、思いがけず「行く(行ける)名目」ができ、生まれて初めて聖地に足を踏み入れました。

写真は後ほど時間ができたらアップします。

ひょっとして、このページの読者の方々の中にも、チャンスがあったら高野山へ行きたいと思っている人がいるかもしれないので、今回は写真だけでなく、高野山行きの模様を「道中記」としてレポートしてみたいと思います。

ヨギー&ヨギーニ、及びヨガスートラ勉強中の人、
日本仏教、特に密教やマンダラに関心がある人、
さらに、おウチが真言宗の人は、人生において一度は行かなきゃね、というところです。

実は帰宅して直ぐに、このレポートだけでもアップしようと思ったのですが、いろいろと疲れていたようで昨日は速攻で寝てしまいました。(高野山の朝は早かったし・・・、おまけに今日はずっと授業だったし・・)

さて、特に高野山へ行こうとは思ってなくて、たくさん字を読むのはかったるいなという人は、以下はスルーして、明日以降の写真のアップを見てください。

では、
<「高野山へ行ってきました」その壱>

まず、名古屋から高野山へ行く方法はいろいろあると思いますが、フナツはオーソドックスに大阪を経由し、難波から南海電鉄で高野山駅へ行くルートを選びました。

まずは朝の新幹線で新大阪へ(マイソール行ってからとも思いましたがさすがに無理でした)、そして地下鉄御堂筋線に乗り換え(もちろんJRを使うルートもあり)「なんば」まで、そして南海電鉄難波駅で高野山行きの電車に乗り換えです。

ビジネスセミナー等で大阪にはしょっちゅう行ってますが、いわゆる「ミナミ」へ行くのはかなり久しぶりです(以前いつ行ったか覚えてないくらい)。たいてい大阪での仕事は、梅田か北浜。南へ行ったとしても淀屋橋どまりです。(このあたり、大阪の土地勘がある人ならわかると思う・・)

南海電鉄の駅及び地上のビル(デパート)がキレイなのにびっくりしました。あー、大阪の人怒らないでください。名古屋人が抱いている大阪、特に「ミナミ」へのイメージは特殊なのです。

難波駅(エキナカもきれい、トイレもきれい!!思わず「名鉄のケチ」って言いたくなりました。南海電鉄のイメージが変わりました!!南海と言えばホークス、そしてドカベン、野球狂の詩、あ、知らない人はスルーね)で、まず戸惑いました。どの電車だ??現代人の悪いクセなんですが、yahooの路線検索で電車の時間とかを事前に調べていくので、想定外の、検索しても出てこなかったような電車が目の前にいると、乗っていいかどうかわからない・・・。

先日、尼崎のヨガスタジオへWSでお邪魔したときも、梅田駅で乗った電車で「これ、尼崎行きますか?」「行きません」って、関西人だったら有り得ない「何でそんなん、間違うん?」というような失敗をしたフナツなので、慎重に、慎重にってことで。

フナツはyahoo検索で調べた急行に乗るつもりだったんですが、目の前に座席指定の特急が止まっている。ええっ?yahooさんっ!これ乗ってもいいの??これのほうが絶対早く着くよね?ねぇ、なんで検索したとき出てこなかったの?と一瞬頭が「?」マークだらけになったのですが「まあ、いいじゃないか、ゆっくり行こう、あせる旅でもないんだし」ということで、急行に乗ったフナツです。

朝も遅い時間の南海電鉄急行電車はのんびりしてました。
買い物客とおぼしきオバ樣方や、これから営業先へ向かおうというビジネスマンが資料を読みながらマーカーしてたり、学生風の若者がちらほら。朝早かったフナツはここで少々居眠り。

そして橋本駅です。高野山へ向かう人のまずは中継地(坂崎磐音もここを通った、はい、わからない人スルー)です。

線路はここから紀ノ川沿いになり、このあたりから少々趣を変えていきます。難波駅を離れてしばらくは、明らかに都心から少々離れたベッドタウン、いわゆる郊外でしたが、それが本格的な田舎になり、そしていくつか集落を過ぎると、いよいよ山の中へ入っていきます。急行電車の最終駅極楽寺までの数駅は「こんなところで降りる人いるの?」ってくらい、まったく何もないところでした。駅員さんしかいない駅。

延々と、まったく人家も見えない山の中をひたすらカーブを繰り返して電車は登っていきます。徐々に徐々に高度を増していくのがわかります。

ご丁寧に、そのまったく人家も見えない場所の駅名の看板の下のほうには、海抜(高度)何メートルと書いてあるくらいです。

そして終点まであと数駅というところの駅名が「九度山」。歴史好きな人なら感激しますね。おお、真田幸村はこんなところにいたのかぁ。ここから真田十勇士を連れて大阪冬の陣に参戦したんだなぁ・・、などと考えてしまいます。

駅員さん以外まったく人影を見ない駅をいくつも過ぎ、急行電車、つまり普通の電車の終点「極楽寺駅」へと電車は到着します。おお、もうなんか駅名すらも聖地に近づいているぞ!

そこで降りてケーブルカーに乗り換えます。ぜひ後で写真を見ていただきたいのですが、すごい角度なんです。45度以上??

まずホームが階段です、当たり前ですが・・、それもとても急な階段です。当然ケーブルカーの中の座席も階段状になってます。ここはスイスのユングフラウかっ!って感じでした。

今までも延々と人家もまったく見えないところを登ってきて、さらに、ものすごい急斜面を5分ほど登ります。もちろんここにも人家はまったく見えず・・。看板とか、とにかく人工的なものもない。

そして高野山駅に到着します。まあ、いちおうバスターミナルとお土産物屋さんなどがあり、休日には賑わうのかなとも思いますが、月曜日ということで、降りた乗客は10数名。

そしてこのあたりから気付いたのですが、圧倒的にガイジン比率多し。特に欧米人。老若男女、そしてカップル、友達同士数人などなど、みなさんバックパックを抱え、英語はもとより、仏語その他が飛び交っています。

また、一般客が車で登ってくる国道は別にあるらしく、なんと南海電鉄ケープルカーの駅「高野山」から高野山の寺院のある地域までは、南海電鉄バスが南海電鉄専用道路を走るのです。

すごいカーブの連続で、やけに車の量が少ないな、さっきからバスとしかすれ違わないぞ??なんて考えてたら、一般車通行禁止、バス専用道路って書いてある・・。

えっと、何が言いたいかというと、電車からケーブルカー、そしてバスと、まったく集落も何もない山の中を延々と通ってたどりつくということなんです。さぞかし昔は孤絶した地域だったんだろうなと思います。山々の中にあり突然現われる平地なんです、現在私たちが高野山だと思っている地域って・・・。

こんなところよく見つけたよなぁ、空海さん、すごい。

そして「次は女人堂でございます」というバスガイドの音声にふと気が付くと、そこが高野山の入り口。南海電鉄を利用して来る人たちの入り口です。車で登ってくる人たちは(まあ、歩いてくる人は最近少ないと思うけど・・)西のほうの旧来の出入り口である「大門」から入るようです。

そして女人堂から少々下っていくと、これがまた、「ここは京都の東山か、嵐山かっ!」ってくらい、いきなり俗っぽくなります。無数のお寺の瓦屋根と、観光客目当てのお土産物屋さんが道の両脇を埋めている。さらに、狭い道を車がバンバン飛ばしていく、観光客がたくさんぞろぞろ歩いていく・・・。

え?何?何?って感じでした。今まで全然人家も集落もないところをずっと通ってきて、車の姿さえ見なかったのが(道路すらなかった)、女人堂を過ぎて高野山に入るといきなりとても日本的な「観光地」!!

そのギャップに驚きます。とにかく道路、特に歩道が狭いのに車がガンガン飛ばしてるんです。いったいこんなたくさんの車はどこにいたの?って感じです。遊歩道か、車の入れない地域があったらいいのにと思いましたが、よく考えると高い山々の上に奇跡的に開いている細長い平地なんですね、高野山って。だから、道路を歩いていると京都にいるような錯覚があるんだけど、それは道の両脇だけで、あとは寺院と山、山、そして山。

不思議な世界でした。

ちょっと長くなりそうなので、<「高野山へ行ってきました」その壱>は、名古屋から高野山への移動&到着まで、ということで終わります。(また、書き込みが長過ぎです、って消えても困るので・・)

以下にアップした本は、フナツが今回の高野山行きで参考にした本です。(今、改めて見たら、エイ出版でした、先日紹介した「ナルー」、サーフィンの本と一緒の出版社です、いろいろ出してんのね)あ、いちおう総本山金剛峰寺・高野山大学が監修の本です。

つづく、

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「高野山へ行ってきました その弐〜四」は(その伍まであったはずなのに「伍」が見つからない・・)tanakomo 2014.4 にアップしてあります。

 

 

 

 

 

『逆立ち日本論』(2013.1.9 fbpage)

 

本の題名こそ日本論ですが、ウチダ先生がユダヤの専門家なので「ユダヤ論」としてブログでとりあげたものです。

 

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とある若い女の子から、「ユダヤ人って何もの?」「そもそもユダヤってどこにあるの?」「ユダヤ人問題って?」というとても素朴な質問があったので、それに(部分的に)答えるためのアップです。

以前、exblogにアップしたものを多少整理してアップします。

さて、この本は、日本人論と銘打ってますが、そこでお二人の対談に出てくる「ユダヤ人論」が素晴らしくわかりやすい。もちろんユダヤに関しては非常にたくさんのことが書かれていますので、一面的な考えかもしれませんが、初心者にはこのくらいがいいのではないでしょうか。

いろいろ言われてもまず基本を押さえておかないとわからないですしね。

では、以前の書き込みを少々手直しして・・、
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ご存知、養老孟司さんと、以前ここで紹介した『下流志向』の内田さんとの対談です。内田さんは元神戸女学院大学の教授で、フランス現代思想、特に「フランスユダヤの文化論」が専門です。最近は武道家としての「武道論」も有名ですね。

今回ちょうど読んでる最中に付箋の手持ちがなかったので、あとで付箋をつけようと、ここはと思ったページの隅を折っていたのですが、折った箇所がかなり多い。

それから、章ごとにいろんな話が展開されていくので、自分に興味のある部分だけ読んでも充分に(本を買った分の)元は取れます。

たとえば第二章の「新・日本人とユダヤ人」は、ユダヤ人ってどんな民族なんだろう?ユダヤ人問題って何?といったことに興味がある人は必読です。この問題は実は、日本人って何だろう?どんな民族なんだろう?いったい日本人って何?という問題にもつながるのですね。

しかし一口に「ユダヤ人問題」っていうけど、奥が深い。すごいです。
 
大陸から絶妙な距離があって、国土を侵略されたこともなければ、虐殺された経験もなく、お父さんもお母さんも友人も親戚も日本人で、日本に生まれ育ったいわゆる「日本人」には想像もつかないような<概念>が存在しています。

たとえば、40ページにはこうあります。養老さんが内田さんの著書『私家版・ユダヤ文化論』文春新書、2006年(これがまたすごくいい本なんです、いずれここで紹介します)から内田さんのユダヤ人に関する記述を紹介している箇所(カッコ書きの部分は内田さんの本からの引用)です。

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 内田さんは、最初に「ユダヤ人」の定義についての疑問を出している。こう書いていますね。「『国民』というのは、原理的には、地理的に集住し、単一の政治単位に帰属し、同一言語を用い、伝統的文化を共有する成員のことだと私たちが信じているからである。だから、そのうちのどれか一つでも条件が欠ければ、国民的連帯感が損なわれるのは当然」と。そして「外国に定住する日本人、日本国籍を持たない日本人、日本語を理解せず日本の伝統文化に愛着を示さない日本人、そのようなものを私たちは『日本のフルメンバー』にカウントする習慣を持たない。それは私たちにとっての『自明』である」と。
 ところが、同じ条件をユダヤ人に当てはめると、「自明」ではなくなってしまう。(中略)「ユダヤ人とは○○である」といえるユダヤ人の一義的な定義は存在しない(中略)引用しておくと「私たち日本人がユダヤ人について行ってきたすべての誤解は、ユダヤ人と日本人を同種の集団カテゴリーだと見なす安易な設定に根ざしている(中略)私たちには理解しがたい共同体意識や、私たちの知的習慣に含まれない思考法がこの世の中には存在する」

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省略が多くてすいません、わかっていただけましたでしょうか?
 
つまり、イスラエル国籍を持たないユダヤ人がいる。東欧系もいればアフリカ系その他のユダヤ人もいるからひとつの人種でもない。ユダヤ教徒だったらユダヤ人なのかというと、あのホロコーストを生んだ「ニュルンベルク法」では、いかなる宗教を信じていようと、ユダヤ人であることを止められないとしています。

端的に言うと「ユダヤ人というのは国民でもなく、人種でもなく、ユダヤ教徒のことでもない」(42ページ)わけです。「ユダヤ人は『ユダヤ人を否定しようとするもの』に媒介されて存在し続けてきた」(同ページ)のです。

反ユダヤ主義というのは、紀元前の中東でも、中世のイベリア半島でも、十九世紀のフランスでも、二十世紀のドイツでも、二十一世紀のアメリカでも巨大な政治運動でありうるのです。つまり反ユダヤ主義が歴史的条件に規定されて成立しているものでなければ、反ユダヤ主義を唱える人々は、いったい何を憎み、何を恐れているのか、これを調べてみたいと(若き)内田さんは思い、ユダヤ主義の研究に入り込んだと語っています。(50ページ)

そしてフナツがびっくりしたのは、ダスティン・ホフマン主演で、ラストシーンが有名な映画『卒業』が、実は完璧なユダヤ映画だったという事実です。

主演のダスティン・ホフマンも、監督のマイク・ニコルズも、主題歌を歌うサイモン&ガーファンクルも(スカボロー・フェアやサウンド・オブ・サイレンスは名曲でしたね、アー・ユー・ゴインツー・スカボロー・フェア、パセリ・セイジ・ローズマリー・エン・ターイム、リメンバ・ミー・・・、誰か止めてください、シー・ワンス・ワーズ・ア・トルゥー・ラブ・オブ・マーイン・うーん、いい曲だ)すべてユダヤ人なんですよ。もちろんアメリカの映画界はユダヤ人だらけなんだけど、あの有名なラストシーンも、キリスト教の教会から花嫁をユダヤ人男性がさらっていくという、宗教的にはかなりきわどいシーンだったらしいです。日本で言うなら・・なんて、とっても危険なたとえはやめます。

他にも第三章「日本の裏側」と第四章「溶けていく世界」は貿易関係の仕事やインターナショナルな現場にいる人は必読だと思うし、第六章「間違いだらけの日本語論争」は日本語教育関連の人はぜひこの章だけでも(本屋で立ち読みでもいいから)読むべし。
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英語の勉強をしている人なら、アメリカ人と接触することもあると思います。そしてアメリカ人の中にユダヤ系という人々がたくさんいて、アメリカのマスコミ、テレビ局を支配しているというのは有名な話だし、そういう陰謀論を流している反ユダヤの人々もたくさんいるという・・。

もちろん裕福な人が多いわけなので、金融関係でもユダヤ関連の話はたくさん出てくると・・・。

さらに、先日もここに書きましたが、キリスト教とユダヤ教に違いはないのです。キリストがいるかいないか、だけだと・・。

簡単に言うと、キリストという存在が重要な新しいユダヤ教のことをキリスト教といい、そういう存在がない古いユダヤ教のことを今日ユダヤ教という、ってまとめたら怒られそうですが、そんな感じです。

 

 

 

 

『私訳 歎異抄』(2012.11.18 tanakomo

 

ほんとうは日本文化論ということで、日本語のカテゴリーで書いたのですが、宗教関係はこちらにアップしておきます。日本語のほうはもっと軽い本を。

 

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今日は<日本語勉強会Ⅱ-2>でした。参加されたみなさんお疲れさまでした。

「日本語と文化:仏教史」というテーマで、ブッダの教えに始まって、仏教の日本への伝来、そして、日本におけるさまざまな仏教の変遷などを、歴史を追っていろいろお話ししました。

ちょっと書き込みが長いです、興味のある方はぜひ!!

日本の文化というテーマでなぜ仏教を?というのは先日からアップしている書き込みで読んでいただいていると思いますが、話していていろいろなところに話が飛ぶのは(まあ、フナツの話は余談が多くて、というのはみなさん知っている・・)、ほんとうに仏教というものが、私たちの暮らしの中に、普段気づいていないのですが、しっかりと根を下ろしているという証拠だと思います。

とまあ、そんなわけで、またとても楽しい2時間(来てくれた人が楽しかったかどうかは別として・・・、フナツはとても楽しかった)を過ごしたわけですが、「仏教とは?」に関して、ぜひお勧めしたいのが以下の本です。

まず今日も、具体的な話を始める前に、みなさんに「おウチの宗派は?」と聞いたのですが、やはり圧倒的に浄土真宗が多い。

その浄土真宗のバイブルといえばこの本ですね。
実は、日本の仏教の大きな特徴が、この本でも語られている「他力本願」です。

今日の話をする上ではずせないテーマなので、それがよくわかる本ということでアップします。

まず、この本の題名の由来を知らない人が多い、おまけにこの本を親鸞さまが書かれたと思っている人も多い・・・。

この本の題名の由来は、親鸞さまが亡くなってから、みんなが勝手なことを言い出した。あまりにも親鸞さまの言葉と「異」なることが多いのを「歎」いている、ということです。そして、実際に親鸞さまが話しているのを覚えている私(唯円)がそれをきちんと書き残すことが大切なんだ、ということで書かれた本です。

「そういうわけで、お亡くなりになった親鸞さまがわたしに直接お話しくださったさまざまなことのなかで、いまもはっきりと耳の底にのこっている大切なことばのいくつかを、ここに書きのこすことにしようと思う。これを念仏という一つの道を、ともに歩まれるみなさんがたの迷いや疑いを、なんとかとりはらいたいという切なる気持ちからである」(11ページ)

いかがですか、五木さんの現代語訳はとても読みやすくて心に沁みますね。

ちなみに、ここの原文は、以下のようになっています。

「よって、故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところ、いささかこれを注す。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々」(82ページ)

それから、あの有名な「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」も現代語訳で明解になっています。

これを五木さんは「善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない」と訳されています。これが本当です。

「あれ?」と思った人、そうです、それで当然です。普通だったら「あんな悪人でさえも救われるのなら、善人が救われるのは当然だ」となりますよね。

『歎異抄』のここの部分を誤解(読み間違い)している人は多いと思います。もう一度上の文章を読んでみてください。順序が逆じゃない?と思うほうが自然です。

実は、ということでその理由を書きたいのですが、でも、やはりこの部分はこの本で読んでいただきたいと思います。(もったいぶるんじゃない、と言われようと、読んでほしいのです!この本を)

読んでみれば単純です。なぜ親鸞さまは悪人のほうが先に救われるとおっしゃったのか・・・。

ここポイントです。ここで初めて何となく「他力本願」がわかってくるとフナツは思います。

そして、この本の構成は、①五木さんの現代語訳、②原典、③五味文彦(東京大学名誉教授、中世史)による「親鸞とその時代」という三部構成になっています。

幅広く学べると思います。

とにかく、「歎異抄」自体は短い読み物なんです。現代語訳でも<大きな文字で>たった70ページしかない。ぜひこの機会にお読みいただくとよろしいかと思います。

他にも、「浄土宗と浄土真宗って何が違うの?」と不思議に思っている人がいます。「同じ浄土ってつくけど・・」って。

そうですね、浄土宗は法然で、真宗とは違います。

このあたり五味先生が書かれています。

まず、親鸞は法然の弟子でした。そして、旧来の仏教に対して新しい仏教のムーブメントを起こし信者を増やす法然たちの活動に、比叡山や興福寺に代表される守旧派の弾圧が始まりのです。法然、行空、幸西に加え、その当時は法然の弟子であった親鸞も一緒に流罪になってしまうのです。

その部分を少々引用して、この書き込みを終わります。
(浄土真宗以前には僧侶は妻帯しないものだったということを頭に置いといてください)

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おそらく親鸞は一心不乱に勉学を志し、法然に認められていったのであろう。
それもあって流罪となったのであるが、このときに親鸞は僧籍を剥奪され、越後の国府に配流され、藤井善信と名乗り、<非僧非俗>の生活を送ることになったという。この非僧非俗の立場においてこそ妻帯も可能となったといえよう。配流中に子をもうけている。建暦元(1211)年三月三日のことで後の信蓮房である。その年の11月には、法然とともに罪をゆるされたが、親鸞は京都に帰らず越後にとどまった。子どもをもうけたことと大いに関係があろう。
法然は赦免になり讃岐から帰京した翌年の建暦二(1212)年に遺言として「一枚起請文」を著し、その直後に亡くなるが、この死の場に親鸞が立ち会わなかったことと、その後の東国での布教とが、親鸞の宗教人生にとっての大きな転機になったものと考えられる。社会的に見て法然の正統な継承者の地位からはずれた親鸞は、ここから宗教的に浄土真宗を求める旅を始めたのである。(134〜135ページ)
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南無阿弥陀仏

 

 

 

 

『日本仏教史』(2012.11.15 tanakomo)

 

これは日本文化史の参考文献にもアップしました。

 

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今週末、日曜の午後は「日本語勉強会Ⅱ-2」です。

八事は興正寺の「竹翠亭」でお抹茶をいただきながら、「日本語と文化:仏教史」というテーマで、日本仏教についてあれこれお話をします。

その参考文献が以下の本です。

そして、この本については、2010年4月、exblogのほうにいろいろ書いてあるので(やはりある勉強会で話をしたので)それを後からアップします。

かなり長いので、全然更新できなくて、3回くらいに分けてアップする予定です。時間のあるときにでも読んでみてください。(日本文化史についてのページ

 

 

 

 

『ふしぎなキリスト教』(2012.9.26 tanakomo

 

この本は、二人の社会学者(宗教社会学者)が、キリスト教とはどういうものか、キリスト教は社会とどのように関わってきたのかということを、問答形式によって明らかにしようと試みた本です。

片方が質問者となって、まず「わからないこと、疑問に思うこと」を提起し(普通はこれが分からないことが多い)、そしてもう片方が解説者となって、その疑問に答えるという形式です。

「わからないことがある」というのは、“わからないことがわからない(自分が、何がわかっていないかがわからない)”という状態のことをいいます。わからないことがわかれば(自分が、何がわかっていないのかがわかれば)、それはもうすぐ「わかるようになる」ということです。

「ここがわからないんです」とはっきり言うことができれば、それはもう半分わかっている状態です。

ちょっとくどいようですが、この本のおもしろさのひとつは、読者が「わからないこと」を、読者に代わって提示してくれている、質問してもらっているというところです。

読者が「うーん」ともやもやしている状態のところに、質問者である大澤さんが「これはどういうことなんでしょうか?」と言ってくれるので、読者も「おお、そうだよな、そこおかしいよな」なんて感じで、つい解説者である橋爪さんが、そこをどのように解き明かしてくれるのかと期待して話に耳を傾けてしまう(読み進めてしまう)わけです。

もちろん、事前に解答が用意されている予定調和的な問答かもしれませんが、「キリスト教のここがわかりません」とか「ここがどうしても理解できないんです」と、大澤さんがまず明示してくれるので、読者は何がわかっていないかが明確になり、理解へのステップが登れるというわけですね。

おおお、全然内容に入れない・・。

内容に入りましょう。

私たちが暮らす社会というのは「近代社会」であり、それはどちらかというと西洋的な社会であると大澤さんは述べます。その近代の根拠となっている西洋とは何か、それがキリスト教型文明であるというわけです。

<近代化とは、西洋から、キリスト教に由来するさまざまなアイデアや制度やモノの考え方が出てきて、それを、西洋の外部にいた者たちが受け入れてきた過程だった>(4ページ、まえがき)

近代日本、特に明治期の日本においてはそれが顕著でした(実は今でもそうなんですけど・・)。明治期の知識人はほとんどそうだったのです。いろんな知識や技術がキリスト教に付随して入ってきた。

えーと、ちなみに、フナツが研究している新渡戸稲造もクリスチャンです(フナツの新渡戸に関する博論の副査を担当していただいた、新渡戸研究の第一人者である佐藤先生も厳格なクリスチャンです)

なのに、そのキリスト教について、戦後の日本人はあまりにもわかっていない。

<いまある程度近代化した社会の中で、近代の根っこになっているキリスト教を「分かっていない度合い」というのをもしIQのような指数で調べることができたとしたら、おそらく日本がトップになるだろう。それは日本人が特に頭が悪いということを意味しているわけではない。そうではなくて、日本があまりにもキリスト教とは関係のない文化的伝統の中にあったことがその原因である>(同ページ)

これはまさにこの本の読了後、フナツが抱いた感想です。
キリスト教の考え方とはあまりにもかけ離れた考え方で生きている日本人・・・、そんな感じでした。

この本はまずユダヤ教の説明から入ります。

実はユダヤ教とキリスト教の違いはほとんどないのです、みなさん知っていましたか?「そもそもユダヤ教って何?」っていう人が多いと思いますが、両者の違いは一言でいえば、イエス・キリストを信じるかどうかです。さらに言うなら、イエス・キリスト自身はユダヤ教徒だった・・・。

そして、イスラム教との違いも織り交ぜながら、イエス・キリストとは一体何ものか?聖書とは?終末論とは?などなどの説明が(もちろん大澤さんがつっこみ、橋爪さんが答えるという形式で)行われます。

そして最後に、キリスト教はいかに「西洋」を作ったかが説明されます。

フナツもいろいろとキリスト教について勉強してきましたが、やはり知らないことが多いです。ホント、勉強するって自分の無知に気づくことですね。

それから、たとえば、アメリカではダーウィンの進化論が学校では教えられていないというのは有名ですね。人間は類人猿から進化した、なんてことはクリスチャンにとっては言語道断なわけです。だって人間というのは、神の姿に似せて、神様が最初から人間として創ったものだからです。そうやって聖書に書いてあるのだから、人間が猿から進化したなんてとんでもないわけです。

はい、きっとアメリカ人の半分くらいは進化論を信じてません。

日本では明治期に進化論が入ってきて、みんなすぐ理解した、信じた。

だから日本人は優秀?

とんでもない。
その頃天皇は神でした、現人神です。
もしも当時、天皇は猿から進化した、なんて口走ったら右翼に殺されます。

アメリカで、聖書に書いてあることはすべて事実である、と言っている人を笑えません。

結局、天皇が神だというのは歴史の時間に習い、進化論は科学のお勉強なわけです。自分の中で要領よく分けていたんですね、普通の日本人は。

詳しくは読んでほしいのですが、
たとえば、アメリカのクリスチャンである科学者は聖書を信じているのだろうか?

信じているんです。そのこと自体信じられないけど・・。

つまり、現代科学で説明のつくような聖書の中の矛盾には目をつぶり、矛盾しないところは信じている、そんな感じだそうです。

そして、なるだけ聖書に書いてあることがほんとうであることを実証するために科学が発展したという面も西洋にはあるそうです。

さらに、イエスが奇跡を起こしたという記述が聖書の中にいたるところにありますが、それを信じるかどうかは別として、この奇跡というものに関して、私たち日本人と西洋のクリスチャンの態度は正反対です。

私たち日本人は、奇跡のことを、実は存在すると思っています。世の中には私たちの理解を越えたものが存在するのは間違いないから、奇跡を起こせる人がいたって不思議じゃない、何度も言いますが、信じる信じないは別として・・・。

ところが、西洋の科学技術を発明し、しかしクリスチャンであるという人々は違うのです。この世は科学の法則によって動いている、空の星も運行の法則がある、水はH2Oだし、雨が降るのはそういう気象状況があるからだ、奇跡などあるわけはない、それは断言できる。だから、だからこそ、そういったありえない奇跡を起こしたキリストは素晴らしいのだ。

・・・、わかりますか?

うーーーん、でしょ?

フナツはこの本によってキリスト教への知見を得て、より深くキリスト教を知ることができました。

しかぁーし、それと同じくらい、キリスト教って不思議だ、わけわからん、という思いも深まりました。

あー、ぜひ、みなさんも読んでみてください。
キリスト教のことがよくわかり、そしてさらに輪をかけてわからなくなる本です。

おもしろいです。

途中、退屈なところがあったら飛ばして読めばいいです。
すべて理解しようなんて思わないで・・、そして最後まで読んでみてください。

 

 

 

 

『池上彰の宗教がわかれば世界がわかる』(2012.9.7 tanakomo

 

宗教関係でもうひとつ池上さんの本を。

この本は、池上さんの解説に加え、仏教、神道、ユダヤ教からキリスト教、そしてイスラム教の専門家の方々と池上さんが対談することで、実にさまざまなことがわかるようになっています。

特に今回フナツは、神道の専門家として登場された國學院大學前学長の安蘇谷さんという方の神道論が非常に興味深かったです。
いろいろ腑に落ちることが多かったですね。

仏教やキリスト教に関してはいろいろ勉強もしてきて、イスラム教も最近勉強を始めましたが、神道については(明治期の国家神道論はやりましたが)そもそも「神道とは何か」ということを改まって勉強したことがなかったので当然といえば当然ですね。

さて、以下はフナツの宗教に関するちょっと長めのつぶやきですので、たくさん字を読むのが苦手な人はスルーしてください。

普段、日本人は宗教というものに無関心な人が多いです。怪しげな新興宗教やカルト集団のイメージを想起して、単純に「宗教はだめ!」と考えている人もいます。

もしくは、他の言語を学び海外の文化に接し、キリスト教やイスラム教という宗教のことを知り、何かしら「宗教」を知ることが「知識」を習得することと同じ、つまりお勉強のようになっている人もいます。

よく言われるように、日本人が宗教を日常レベルで自覚するのは近しい人の葬式や法事ということが多いですね。葬儀屋さんから「お宅の宗派は何ですか?」と聞かれて、慌てて調べるとかね。(恥ずかしながらフナツもそうでした、それまで知らなかった・・)

ちなみに、結婚式を教会で挙げる、何々神宮で神式で執り行うといったことに「宗教」は絡まないですね。何らかの関わりがあるかもしれませんが、ほとんど「好み」の範疇です。

おまけに、私たち日本人はクリスチャンでもないのにクリスマスを祝い、お正月には神社へ初詣に行きます。そして「あなたの宗教は?」と聞かれたら、「うーん、仏教かな・・」って答えるわけです。

一神教の国(キリスト教やイスラム教)から来た外国人の目には「ありえねー」と、とても奇妙な風景に写るでしょうね。

でも、いいんです。全然オッケーです。

外国人から「そんなのヘンだ」と言われても気にする必要はまったくありません。「自分たちが信じている宗教が一番よくて、他はよくないと考えているおまえらのほうがヘンだ!」と言い返してください。

唯一の神を信じて、他の神様を信じる人を「悪魔」だと断じることのほうが危険です。「自分たちが正しくて、他の人が間違っている」と思い込むのも危険ですね。

日本人は、唯一、ただひとつの神を信じるのではなく、多神教であるということはよく言われています。

たとえば、山にも川にも海にも、自然の中にも神様がいると信じています。いわゆるアニミズムですね。

また、信じる神様は人それぞれだということを許容します。いうならば、キリストもアッラーもヴィシュヌ(ヒンドゥーの神様)も、そして天照大神も同列なのです。それこそ、クリスチャンやムスリムの方々には「ありえねー」でしょうね。

「ナンマンダブ」と仏壇の前で唱え、毎朝お供えを欠かさないおばあちゃんが、十字架を「汚らわしい」と粗末にすることはないはずです。斎戒沐浴して神殿に祈りを捧げる宮司の方々がコーランを焼き捨てることもない。

「わしゃ信じておらんけど、海の向こうのカミサマだからの、信じておる人には大事なもんだからの」なんて言いながらちょっと拝んで脇に置くって感じだと思います・・。

アメリカで、狂信的な牧師によってコーランが焼き捨てられたことがあります。ムハンマドを冒涜した本の著者が暗殺されるという事件、たしか10年以上前ですが、さらにそれを翻訳した日本人も命の危険を感じるという事件もありました。

そもそも、アメリカやイスラム諸国が「宗教国家」であるというのは揺るぎない現実です。古くは十字軍に始まり、さまざまな宗教・勢力の衝突によって世界中で殺し合いが行われるのも現実です。

ちょっと話が脇にそれました、戻します。

そして、日本人の宗教観には、上記に加え「祖先崇拝」があります。

みなさんは仏壇に向かってお祈りするときに、仏壇の奥にある親鸞サマを拝んでいますか、大日如来サマに語りかけていますか?

そうではなくて、たぶん、亡くなったおじいちゃんやご先祖サマに「合格しますように」とか、「無事に帰って来れますように」とかお祈りしてるんじゃないでしょうか。

そうです、私たちは、神様に加えご先祖サマも自分たちを守っていてくれると信じているのです。他にも「お天道様が〜」という言い方もありますね。

フナツは、大学院で日本語教育及び日本の文化について学び研究し、某大学の留学生別科で日本語教師として教鞭をとり、日本語教師になりたい人のための養成講座で教え、多くの外国人留学生と、それら海外の人々と日常的に接している多くの日本語教師・日本語教育ボランティアの方々と話す機会が多かったので、ごく普通の日本人より「日本人の宗教観」に関して考え、話をする機会が多かったと思います。

くどいようですが、「日本人は無宗教である」とか「日本人に宗教心は薄い」なんてことはありません。日本人ですらそう信じている人もいますが、それは明らかに事実とは異なります。

単に、海外と比較した場合に、日本人の宗教心・宗教観と、海外の人々(と簡単にひとくくりにしてしまうのはよくないですが、便宜上)の宗教心・宗教観が<違う>だけです。日本人の「神」の概念と、一神教を信じる(もしくは信じているとされる)国の方々の考える「神」の概念は決定的に<違う>のです。

戦後しばらくの間、欧米のものは日本のものより良い、と日本人は信じ込まされてきた経緯があって、それは宗教に関しても同じです。一神教を信じることこそ宗教である、アニミズムは原始的な宗教観念である、と彼ら(欧米の方々)は言うわけです。そして同じ文脈で、仏教・神道は時代遅れで、日本人の宗教心は間違っていると主張されて、「はあ、そんなもんなんだ」とひと世代前の日本人は思い込んでしまったわけです。

加えて、私たちは別にキリストの降誕祭を祝っているわけではなく、クリスマスは消費を喚起するための方便(みんながレストランでお金を使い、プレゼントを買い、ケーキが売れ、他にもたくさん儲かるところがある)と割り切っています。

商業主義にうまく乗っかったというところですね。まあいろいろそういうところが外国から来た人には混沌と写るわけでしょう。

宗教とは何か、そして日本人の宗教観とは、そして皆さん自身にとっての宗教とは、そういったことを、考える際のひとつのヒントにこの本がなるような気がします。

 

 

 

 

『池上彰と考える、仏教って何ですか?』(2012.8.30 tanakomo

 

後期の授業に向けて、ちょっと宗教関係の参考文献をいろいろ読んでます。その中でも比較的読みやすいものを紹介します。

池上さんのことはみなさんご存知かと思います。いろいろなことをわかりやすく解説してくれる達人ですね。

ちなみに池上さんは、この本の中で仏教の葬式につきものの「戒名」についてもふれていますが、「戒名」は故人が生前どんな人だったかによってつけられるので、<ならば私の場合は、解説の「解」か「説」かなと。どちらかを入れてくれたらうれしいなと思ったりもします>(214ページ)と述べています。

おもしろいですね。

さてこの本は、日本人ならよく知ってるつもりで、でも実はよくわかっていない「仏教」について、きちんとおさらいができる本です。

ブッダのこと、初期の仏教とその伝来ルート、そして日本の仏教の歴史をわかりやすく書いていますので、なんとなく疑問に思っていたこと、なぜ日本の仏教が葬式仏教になったかといったことなど、いろいろなことをよく理解できるようになっています。

そしてもちろん「ブッダの教え」や「ブッダが目指したもの」に始まり、古き仏教の教えが色濃く残るチベット仏教の高僧との問答やチベット仏教の最高指導者であり世界中の仏教徒の精神的支柱であるダライ・ラマ14世との対談から、現代の仏教的精神とはいかなるものか、にいたるまで解説してくれています。

仏教というのは、キリスト教やイスラム教とは絶対的に違う点がいくつかあります。この本を読んで、ぜひそれを知ってもらえるとうれしいなとフナツは思います。

「仏教徒になる必要はありません。よい生き方をすればいいのです」(49ページ)

ダライ・ラマ14世の言葉です。

そして最後に、「仏教を知ることは、己を知ること。そして、日本を知ることです」(217ページ)と池上さんはこの本を結んでいます。

みなさん、仏教ってけっこういいですよ。