(2013.8.13 tanakomo)
また秋から某大学オープンカレッジで「ヨーガ・スートラ入門」講座をやります。
難解と言われる「ヨーガ・スートラ」をわかりやすく解説していく講座です。
ヨーガ・スートラってちゃんと読むとなかなかおもしろいですよ!!
10月からの金曜夕方です。詳細はまた後ほど。
以下にアップしたのは、主に使用する(他のも使いますが)参考文献です。でも、講座はわかりやすいレジュメを配布します。
良かったら一緒に勉強しましょう!!
***
(2014.5.11)
参考までに、以下にフナツがまとめた(授業で使用した)レジュメをアップしておきます。
「ヨガ・スートラ入門」③
参考文献:
グレゴール・メーレ『現代人のためのヨーガ・スートラ』伊藤雅之監訳、加野敬子翻訳、産調出版、2009年、以下(メーレ、2009)と表記する。
佐保田鶴治『解説ヨーガ・スートラ』平河出版、1980年、以下(佐保田、1980)
中村元『ヨーガとサーンキヤの思想』(中村元選集第24巻)春秋社、1996年、以下(中村、1996)
本多恵『ヨーガ書註解―試訳と研究』平楽寺書店、1978年、以下(本多、1978)
第一章(サマーディ、三昧章)
1−1、
・さあ、ヨーガの権威ある教えを始めよう。(メーレ、2009)
・さて、ヨーガの教えが(始まる)。(中村、1996)
・これよりヨーガの解説をしよう。(佐保田、1980)
・さて、ヨーガの教えが(開始される)。(本多、1978)
註釈:(メーレ、2009)
そもそも「ヨーガ・スートラ」は短い詩句であり、注釈書なしには読み進むことが難しい。
ヴィヤーサの『ヨーガ・バーシャ』、その注釈書に復注をつけたアディ・シャンカラの『ヴィヴァラナ』他の復注書がある。
1−2、
・ヨーガとは、心のはたらきを止滅することである。(メーレ、2009)(佐保田、1980)
・ヨーガとは、心のはたらきの止滅である。(中村、1996)
・ヨーガとは、心作用の抑制である。(本多、1978)
註釈:(メーレ、2009)
*湖面のたとえ:湖面が静止していれば、湖はものを映す鏡となるが、石を投げ入れれば、さざ波が起こり映った像はゆがめられる。
心(チッタ)は、無意識のもので、心の中に意識は存在しない。
ニローダとは何か。心を統制し抑制しようとするなら、心を統制する心があるのか、その実体は。
意識の認識は、心の波を受動的に停止し、静め、止むのを通してであり、洞察力、叡智、知性、知識を通してのみ可能となる。
ニローダを統制、抑制と訳せば、自我や意思の力によるものとなり、身を委ね、執着を離れ、認識する行為とは離れてしまう。このような形で瞑想を行っても自己中心的な行為になってしまう。
1−3、
・その時、見る者は本来の姿にとどまる。(メーレ、2009)
・そのとき、観照者(=プルシャ)はそれ自体のうちに安住する。(中村、1996)
・心のはたらきが止滅された時には、純粋観照者たる真我は自己本来の態にとどまることになる。(佐保田、1980)
・その時、見者は本性に住する。(本多、1978)
註釈:(メーレ、2009)
瞑想の第一段階は、自分の体を観察することである。そのとき見るものと見られるものは異なることが認識できる。自分は体なのか、それとも体を所有しているものなのか。
同じようにマインドを観察すると、見るもの(観照者)と見られるものは違うということが認識できる。もっと深い自我を観察することになる。
*OSとアプリケーションソフトの例
自我を観察できるようになれば、私たちは自我ではなく、もっと深いところにいるものであることがわかる。この深いところにある次の層が「知性」(ブッディ)である。知性には「私」という観念はない。知性は純粋な叡智である。
そして、もう一段先の瞑想では、知性を観察することによって、知性はまた外側にある主体に観照されていることがわかる。これがプルシャ、あるいはアートマンと呼ばれるもので、気づきから成り立つ。気づきには形も実質もない。
真のヨーガの状態に至って心の揺らぎが静まれば、見る者すなわち気づきが本来の姿の中にとどまる。人間は、プルシャ(意識)とプラクリティ(具現)との橋渡しをしている存在であり、私たちは自分の姿を現象の世界に投影し、自我意識を持った体/マインドなどの現象を自分自身と信じてしまうのだ。
*水晶とバラの花の例
1−4、
・そうでない時は、心のはたらきと同じ形を帯びるように見える。(メーレ、2009)
・他の場合には、心のはたらきと同じすがたをもっている。(中村、1996)
・その他の場合にあっては、真我は、心のいろいろなはたらきに同化した姿をとっている。(佐保田、1980)
・そうでない場合には、(見者は心の)作用と同じ姿を呈する。(本多、1978)
註釈:(メーレ、2009)
そうでない時=見る者が意識という本来の姿にとどまっていない時、内容がどうであれ、心の形を帯びているように見える、すなわち水晶を赤だと思ってしまう。
思考の波が心という湖の表面にさざ波を起こせば、その色や形が純粋な気づき/意識という本来の姿に焼き付けられる。磁石が金属を引きつけるように、心は対象を引きつけ、間違った印象を引き起こす。これが人間の不幸と苦しみの原因となる。
私たちは、日々何百万ものことを考え、いくつもの個性を持ち、一瞬一瞬変わっている。この頭の中の声を自分だと思ってしまわなければ、問題にはならない。誰でも殺人のことは考えるが、その思考を自分のものとは考えなければよい。同一視することから問題が生じる。
自分自身を外側に投影して心のはたらきと1つになるのは、精神的服従につながる。ヨーガでは、精神的な服従というのは誰かに操られることを意味するのではなく、自分自身の心に欺かれることを意味する。私たちは自分自身の心の奴隷なのである。
1−5、
・心のはたらきには5種類あり、苦しみを伴うものと伴わないものがある。(メーレ、2009)
・[心の]はたらきは五種類あり、煩悩に汚されたものと煩悩に汚されていないものとがある。(中村、1996)
・心のはたらきには五つの種類がある。それらには煩悩性のものと非煩悩性のものとがある。(佐保田、1980)
・作用は五種で、汚れたると汚れざるとがある。(本多、1978)
註釈:(メーレ、2009)
苦しみを伴う心の揺らぎは、5つの煩悩(クレーシャ、無知、自我意識、欲望、嫌悪、恐れ)から起こる。心の揺らぎは平安、幸福、満足からは生まれない。
また、苦しみを伴う心のはたらきは潜在印象(サンスカーラ)を生じさせる。
*「怒り」の潜在印象の例
ヨーギにとって、これら潜在印象は重要である。今日作り上げた印象が明日の行動を決めるからだ。心の揺らぎは潜在印象を新たに作り続け、心の波とサンスカーラは車輪のように回転し続ける。
***
『中村元選集 第24巻』(2013.2.22 tanakomo)
今日は、某大学オープンカレッジ、「ヨガ・スートラ入門」講座の最終日でした。全8回はあっという間でした。
えーと、そうなんです、大阪でWSやって新幹線乗って名古屋へ帰っての講義でした。(WS後の食事会で話し込んでしまって、けっこうぎりぎりになってあせってしまいましたが・・)
最後までフナツの「ヨガ・スートラ」講座におつきあいいただいたみなさん、どうもありがとうございました。
また、春からの「バガヴァッド・ギーター入門」講座におつきあいいただくと嬉しいです。
いやあ、これも毎回実に楽しかったです。(たっぷり楽しませていただきました)
以前ここでこの講座のことをアップしたときにも書きましたが、自分が研究していることを聞いてくれる人がいて、そしてそれでお金がもらえるなんて最高ですね。
自分でコツコツ(まあ博士論文からの流れなんですが、ヨガを自分でも本格的にやるようになってからは、いろんな方向から研究できるようになった・・・)いろんな文献をひっくり返して、あーでもない、こーでもない、とやってると、やっぱりけっこう煮詰まってしまうわけですが、講座のためにレジュメを作り、初めての人にもわかるように説明しなきゃいけないとなると、もう一度自分が何がわかっていて、何が分かっていないかを考えないといけないし、再度読み込まないといけない。
こういった作業がまた楽しい。
講座で話しているうちに、わかってくることもあるし、受講生の方々からの質問で考えさせられることもあります。
やっぱり研究は発表してナンボであり、頭の中の知識は、インプットだけでは偏るので、アウトプットも必要ってことがわかります。
今度発表する論文のテーマは「ヨガ・スートラ」関連ではないですが、また時期を見てこのあたりを何かしら論文にまとめたいと考えています。
今回取り上げた本は、中村先生の(ほぼ全集である)選集の中から、ヨガとサーンキヤを取り上げた第24巻です。
この本の第五章と第六章が「ヨガ・スートラ」の翻訳になっています。佐保田先生やグレゴール・メーレの訳とも違う、また味わい深い翻訳になっています。
今さらながらですが、中村先生のインド哲学に関する知識の集大成としてのこの「選集」はすごい、の一言です。
はるかに仰ぎ見る山の頂ですね。
少しでも頂目指して登っていきたいものです。
さて、そんなエベレストのような中村先生の著述とは全然違いますが、フナツが作った「ヨガ・スートラ入門」講座、ある回のレジュメです。
関心のない人はスルーしてください。
あくまでも、このレジュメにフナツが解説を加えていくわけですので、一読わからない箇所もあるとは思いますが・・・。
2−7、
・欲望とは、快楽に執着するものである。(メーレ)
・貪欲は、楽にしたがって起こる。(中村)
・貪愛とは、快楽にとらわれた心情である。(佐保田)
・欲は楽に従う。(本多)
註釈:(メーレ)
欲望は3段階を経て作用する。快楽を経験、潜在印象(サンスカーラ)が形成される、快楽に満ちた経験は記憶されそれを欲する気持ちが高まる。その経験を繰り返そうと試み、そこに中毒的傾向が引き起こされるか、その繰り返しが不可能になると苦しむ。
快楽に満ちた経験そのものは問題ではない。
ジュニャーニン(知識を持つ人)であれば、快楽を経験したことで満たされ、繰り返しの願望は生まれない。同じ経験が起きるたびに初めての経験と同様の無垢な新鮮さで向き合える。
そうでない人は、自分自身を経験しているという感覚を持つために、快楽の繰り返しを求める。自己の光が見えないため、自分自身を知らないために存在する空虚な場所が、その快楽による幸福な印象で満たされることになる。
しかし、経験が繰り返されても同じ幸福は味わえない。幸福が生じたのは心が新しい経験に一時的に圧倒されただけで、心が真っ白になり、わずかの時間だけ輝く太陽のような自己に気づいただけなのである。経験が繰り返される時には、心はすでに準備ができているためもはや圧倒されることはなく、パッケージに経験を入れて解釈し、以前と同じ幸福な状態になるまで、経験の強度を増大させることになる。ドラッグ使用者は絶えず麻薬を打ち、億万長者は巨大帝国を築き、独裁者は次の国へと侵略を続ける。いくら獲得しようとそれで十分と思えなくなる。
さらに、欲望(ラーガ)とそれにまつわる中毒症状は、ともに誤解、あるいは無知(アヴィディヤー)の明確な形態である。薬物常習者なら「ドラッグが必要なんだ」と言うかもしれない。これは快楽を覚えていて、その快楽を欲しいという気持ちが自覚的に私という機能と結びついている。しかし真の自己は、快楽の残した潜在印象とはまったく関係ない。本当の私とは、記憶のない純粋は気づきである。純粋な気づきや意識の経験が、快楽のような経験と結びつくことを無知という。
感覚・マインド・知性などの認識手段は、快楽の経験を生み出す。しかし、認識手段と意識は違う。私としての真の姿と認識手段とを同一視することは、中毒症状や欲望のさまざまな形として現れる。←自我意識(アミスター)自己/意識が認識されれば、すべての中毒症状は自然になくなり、自我意識が破壊される。欲望という煩悩が苦しみを生み出すのは、初めに快楽が起った時に形成される潜在印象によって、快楽を繰り返したいという気持ちが起り、それを切望するからなのである。
ここまで読んでいただいた方に、「ナマステ」。
『バガヴァッド・ギーターの世界』(2013.1.4 tanakomo)
以下の講座は結局、開講するための最低限の人数の申込がなかったので、開講されませんでした。あと2〜3名いたらな、って感じでした。しかし、授業の準備は楽しかったし、それで新しい発見もまたいくつかあってよかったです。
***
某大学のオープンカレッジ(学外の社会人も参加できる講座)春期講座で、4月から「バガヴァッド・ギーター」入門講座をやります。
現在秋期講座で「ヨガ・スートラ」入門講座をやっているのですが、その続きです。(できれば、春はギーター、秋はスートラという形で毎年やっていきたいなぁと思っています・・)
そして、その講座でサブテキストとして紹介しようと思っている本が以下の本です。
ちょっと長い書き込みなので興味のない人はスルーしてください。
講座はもちろん「バガヴァッド・ギーター」の日本語訳と、私が作成するレジュメで行いますが、全体的な理解と自宅学習用に参考文献としてイチオシしたい本です。(かなり前ですが、この本の存在を教えてくれたR先生ありがとうございます)
以前、exblogのほうにもアップしたのですが、とてもいい本なので、もう一度ここでもアップしておきます。
著者の上村先生は、東京大学東洋文化研究所の教授だった方で、サンスクリット語に堪能で、ライフワークとして「マハーバーラタ」のサンスクリット語からの原典訳を進めておられました。(「マハーバーラタ」の英語からの重訳は山際素男さんのものがあります)
そしてその過程で「マハーバーラタ」の一部である「バガヴァッド・ギーター」についても翻訳を手掛けられるわけです。
ちなみに、「マハーバーラタ」原典訳の出版は2002年から開始されたのですが、上村先生は2003年に第7巻の出版を見ることなく御亡くなりになり、第8巻は恩師である原実教授が遺稿を元に書きおこし出版の運びとなりました。そして全11巻を予定していたシリーズは絶筆ということになってしまいました。原教授は「マハーバーラタ」8巻の解説にその追悼の想いをつづっておられます。
気を取り直して・・・、
上村先生はまず、バガヴァッド・ギーターはヒンドゥー教の聖典であり、インドでは庶民の精神的な教科書として未だに影響力を持っているという話から入り、ヒンドゥー教とは「インドの宗教」という意味であると述べます。
ちなみに、ヒンドゥー教の神さまは仏教の伝来とともに、日本にもたくさん入っていて、とても日本人にとって近い存在(宗教)なのです。
上村先生は「日本仏教にも大きな影響を与えた」とし、さらに「日本人は隠れヒンドゥー教徒」(21ページ)とまで書いています。
またバガヴァッド・ギーターは、世界ではとても有名といってもいいインド哲学の書でもあります(ガンジーやヴェートーベン、ヘッセなど、多くの哲学者、文人、政治家たちが愛読していた)。
この本は、そんな「バガヴァッド・ギーター」という聖典をわかりやすく解説したものです。
裏表紙から引用します。(内容紹介として下のサイトにもありますが)
***
古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の中の一編で、同族同士が戦うことに深く悩み、戦意を喪失している勇士アルジュナへ、御者を務めていた賢者クリシュナ(実は最高神の化身)が、彼を鼓舞するために説いた教えが、バガヴァッド・ギーター(神の教え)である。人間存在のむなしさを描き、現世の義務をはたしつつ解脱に達する道を説く信仰の書をわかりやすく解き明かす。さらに帝釈天、弁才天、大黒天、毘沙門天、鬼子母神などのルーツを解説し、宗派を超えて愛誦されてきた最高聖典が、仏教や日本の宗教文化、日本人のものの考え方に与えた影響を明らかにする労作。
***
さて、いくつかフナツの好きなくだり(とても有名なところ)を紹介しますね。
「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはいけならぬ」(49ページ)
「それ故、執着することなく、常になすべき行為を遂行せよ。実に、執着なしに行為を行えば、人は最高の存在に達する」(67ページ)
いいですねぇ・・。
では参考までに、インドにおける二つの叙事詩について、辞書における説明を書いておきます。
・「マハーバーラタ」:古代インドの大叙事詩。バラタ族に属するクル族の100人の兄弟とパーンドゥ族の5人の兄弟との間に起こった戦争物語。現在のものは4世紀頃成る。ヒンドゥー教徒は宗教・哲学・倫理・政治・法律その他あらゆる方面の根本経典として尊崇。(広辞苑)
・「ラーマーヤナ」:古代インドの大叙事詩。マハーバーラタと並び称される。ヴァールミキ作と伝えられる。コーサラ国の王子ラーマが羅刹王ラーヴァナに掠奪された妃シーターを奪回するという筋。全7編。現存のものは二世紀末頃の成立。(広辞苑)
『瞑想ヨガ入門』(2012.11.23 tanakomo)
沖先生の本が新装改訂版で出ています(2005年)。
(フナツが持っているのは1975年版ですが・・)
Sさん、よかったらこちらで勉強してみてください。
ヨガ哲学を勉強したいと思っているけど、佐保田先生や中村元先生の本がちょっと難しいなと感じている人にもお勧めです。
アカデミックな本よりは比較的読みやすいと思います。
『ヨーガの思想』(2012.11.15 tanakomo)
2012年はこの講座が開講されて、毎週の講義が楽しかったです。
***
明日は某大学オープンカレッジでの「ヨガ・スートラ入門」講座です。
まだ二回目なので、どんなふうに発展していくかはまだ見えてこないですが、おもしろい講座にしようと思っています。
前回は概論で、
1、ヨーガとは何か
1−1、ヨーガという言葉の意味
1−2、ヨーガの定義
1−3、ヨーガの各流派
1−4、ヨーガの歴史
2、ヨーガ・スートラについて
2−1、歴史的背景
って感じで話し、
今回は
2−2、哲学的背景、から始めます。
ウパニシャッド、サーンキヤ、そして「バガヴァッド・ギーター」におけるヨーガについて話そうと思っています。
以下の本は、ヨギー(ヨガをする男の人をこう呼ぶ)が書いた本ではなく、インド思想史の専門家の立場から、ヨーガの思想をわかりやすく解説した本です。
フナツはどちらかというと研究者の立場からヨーガを見ているので、こういった本や、中村元先生の数々の著作、そして佐保田先生の本が読みやすいと感じてしまいます。
さあ、明日はどんな質問が出てくるやら・・、自分が研究していることを話すのも楽しいですが、受講者のみなさんの質問を聞くのも楽しいです。
『現代人のためのヨーガ・スートラ』(2012.10.19 tanakomo)
今日は、某大学オープンカレッジでの「ヨガ・スートラ入門」講座の初日でした。
楽しかったです。(しみじみ・・)
いろいろ好きなことを話せて気持ちよかったというべきか・・。
まず、自分の研究していることを(わざわざお金を払って、出向いてくれて)聞いてくれる人がいるということ、そしてその話を聞いて、楽しかった、ためになったと言ってくれる人がいること、これが楽しさの理由です。
英語の授業とか音声学とか、または国際ビジネスとかの講座やセミナーなどは、具体的に仕事のためにとか、単位を取るためにどうしても出なきゃいけない必須科目であるとか、国家試験のために必要とか、何かしら(嫌でも)出るべき理由があるから出席する人もいるわけです。
(もちろんこの講座にもヨガのインストラクターの方が数人来ていて、その方々は仕事に必要なわけですが)でも、どちらかというとこの講座は、必要に迫られてというより「教養」講座に近いわけですね。「必要」というより「興味・関心」で来てくれている人が多い。それも楽しさの理由ですね。
講座のレジュメ作成も楽しい。
次から次へと「これも解説しなきゃ」「うん、これも説明しないと、ここが理解してもらえないかもしれない」なんて感じで作ってしまって、結局今日の講座だけで、データで送付したのが、A4を4枚、コピーが4枚と1枚でワンセット、とけっこう大量になってしまいました。大学の授業みたい・・。
おまけに参考文献を10冊以上、仕事部屋から持参するという(重かった!)気合いの入れようです。
次回もとても楽しみです。
ということで本の紹介が遅れましたが、先日アップした佐保田先生の本がちょっと古くて、そして難解という方にはこちらをお勧めします。ヨガスートラの現代語訳と、伊藤先生による日本語版解説付録付きです。
えーと、ただ、こんなことは普通の人にはまったく関係ないんですが、研究者の立場から言わせてもらうと、これはサンスクリット語から欧米の言語に翻訳したものを日本語に訳したわけなので、ひと手間多いわけです。そして、テクストというのは翻訳を繰り返すと、翻訳者の考えや、混ざり物が多くなります。
佐保田先生の本はサンスクリットから直接日本語に訳したものなので、より原文に近いという観点からは、佐保田先生の本のほうを尊重したいかなと・・。
もちろん、ヨガスートラを初めて読む人はこちらのほうが断然読みやすくていいです。
『解説 ヨーガ・スートラ』(2012.8.7 tanakomo)
秋から「ヨーガ・スートラ入門講座」やります!!(2012年秋)
「ヨガ・スートラ」といえば、ヨガの根本教典。
でも、広く読まれてはいません。まず一般の人たちは知らないと思います。
ヨガのインストラクターの方々でも、養成講座などで必須になっているので一部分だけは読んだことがある(ヨガ関連の雑誌で有名な部分だけを読んだことがある)だけの人が多いと思います。
ヨガをやっている人たちでも、名前だけしか知らないという人も多いと思いんじゃないかなと(これは推測ですが)思います。
しかし、その内容は実践的な認知科学であり、心理学です。(言語学や哲学に近いところもあり、人間そのものへの洞察もたくさんあります)
さらに、ブッダの教えや「禅」は、ヨガと同じ流れの中から出たものですから、ヨガ・スートラの研究は仏教を理解する手助けにもなります。インド哲学の勉強にもなります。
でもこの講座では、そういった流れを踏まえつつも、ヨガ・スートラを実用的なハンドブックとして理解しいくことを主眼としています。
その智慧を実際の生活に役立てることができるように、さまざまな解説を加えながら、参加したみなさんと一緒に読み進んでいきたいと思っています。
以下の本を参考文献として、フナツがレジュメを作成し読み進めますが、「このへんってこういうこと言ってるんじゃない?」とか「これ仏教のあのセリフに似てる」とか「ヨガやってるときにこういう感じする」なんて、自分の感覚でいろいろと発言してもらう場にもしたいと思ってます。
『野口体操 感覚こそ力』(2012.7.26 tanakomo)
読書日記/実用書/健康関連のほうにもアップしましたが、ヨガの参考書としてもとてもいい本なので、こちらにもアップしておきます。
「野口体操」に興味を持った方がいたら、この本を薦めます。
実は、野口三千三先生自身が書かれた、岩波現代文庫から出ている『原初生命体としての人間』という名著もあるのですが(この本はすごいです、何度読んでもその度に新しい発見がある、まさに名著です、でも)少々読みにくいので、こちらを推薦します。
こちらの本は、まさにお弟子さんである羽鳥さんが実体験したことが、授業風景や今でいうWSのようなものの体験談とかエクササイズの描写などで、リアルにイメージできるように書かれています。
さらに、野口先生がおっしゃっていることを羽鳥さんが噛み砕いて説明しているところなどがわかりやすいと思います。(巻末にインタビューもあります)
えーと、ホントにここで簡単に説明できないくらい、内容がぎっしりつまった本です。自分の身体というものに興味がある人、他人の身体に接することが多い人、人間の身体はどういう仕組みになっているんだ、といった諸々のことが気になっている人にこの本を強くフナツ(独断と偏見で)薦めます。
レジュメには参考文献としては挙げませんが(ちょっと分厚くてボリュームたっぷりだし、どちらかというと受講者よりも講師のほう向けって感じもするので)、フナツはボイストレーニングやヨガを教える際のさまざまな知見を、ヒントをこの本から得ています・・・、ということで。
『プレヨガで「あなたのヨガ」をはじめよう』(2012.4.16 tanakomo)
フナツのヨガの師であるB先生から、松本くらさんのことを教えてもらいました。
ホント女性のためのとてもわかりやすく書かれた「ヨガ」の本です。
「なんか最近フナツはヨガのことばっかり書いてるけど、ヨガって一体何?」と思ってる人。
「ヨガがナンボのもんじゃぁ?」と思ってる人。
そして
「ちょっとこないだやってみたらなかなかいいじゃん」と思ってる人。
「やってみたい、でも勇気がない」と思ってる人。
そんな人たちにお勧めの本です。
書き方が上手。たぶん教え方も上手なんだろうなぁと思います。
いろんな人たちがいろんなアプローチでヨガに親しむようになるといいなと思います。
(2012.3.21 tanakomo)
2012年にヨガクラスを始める前にアップした記事ですね、懐かしい・・。
***
今度ヨガクラスやります!!
ワークショップじゃなくて、毎週ヨガスタジオでフナツが担当するクラスをやります。詳細はまたここにアップします。
クラスの名前は「ヒーリング&リラクゼーションヨガ」です。
忙しいビジネスパースンや、ストレスがたまっている人たちにリラックスしてもらおうというクラスです。
体が硬くても全然大丈夫!ということで、久しぶりにヨガ本の紹介です。
とてもいい本です。(ヨガ入門本として)
ヨガは「苦しいポーズに耐えて体を鍛える」とか「体が柔らかくないとできない」ものとして考えている人が多いのですが、全然そうではないのです!
ポーズの途中に寝ちゃってもいいんですよ、っていうクラスをやりますから、乞うご期待!!
『二人ヨーガ楽健法』(2011.12.15 tanakomo)
この本、とてもいい本です。
最初は、フナツのヨガの師であるバン先生から紹介されたのですが、もう何回読んだかわからないほどです。
そしてこの本で紹介されている「楽健法」は、さきほども書いた東京での<ゆるめるWS>の後半でやったもので、いろんな場所で、いろんな機会で、そしていろんなWSでやりましたが、誰にも喜ばれるワークです。
やってあげるとホントみなさん気持ちいいって言うのがうれしい。
具体的にはペアになって身体のいろんなところを踏んであげるというものですが、こればかりは実際にやってみないとその気持ち良さはわかりません(実際に試してみたい人はフナツに連絡してください、WSやりましょう)。
さて、この本には楽健法以外にも発酵食品や日常の健康法などいろいろ書いてあるので一度本屋さんで見てみてください。(ちょっとイラストとか普通じゃないですが、見慣れると違和感がなくなります)
著者の山内さんは、真言宗の僧侶で住職さんであり、さらにアーユルヴェーダ学会の理事でもあります。奈良県のお寺でいろいろ講習もやっておられます。
世の中にはこういった知られざるすごい人がたくさんいるんだろうなって感じです。
龍村式指ヨガ健康法(2011.12.14 tanakomo)
先日の「こころと身体」ゆるめるWSの前半でやったリラックス法のひとつです。フナツの授業やセミナーに出たことがある人なら知っていると思いますが、手のひらや指を刺激しただけで身体の各部分を刺激したのと同じ効果があるというものです。ホントのヨガは大変だけど、指と手のひらの刺激だけならいつでもどこでもできるし、他の人にやってあげることも可能、というとてもスグレもののリラックス法です。(いちおうフナツはこの指ヨガの公認インストラクターでもあります)